どうも、「エセ関西弁翻訳の人」ことお市です。昨季はジョン・ハッチンソンコーチをネタにしてしまってえろうすんまへんでした。
今回は2022シーズンから内部昇格でヘッドコーチに就任したショーン・オントンコーチが、選手引退後の人生について語ったインタビュー記事の翻訳です。出典はオーストラリアの新鋭サッカーメディア、『KEEPUP』のこの記事です。私の訳は意訳溢れるテキトーなものなので、ぜひ元記事もご覧ください。(やたら日本からのアクセスが増えたらマリノス関連の記事増えたりするかもしれないし)
誤訳とかは笑って許せるよ!って方は以下よりどーぞ!「」の斜体がオントンコーチのセリフです。
ムエタイ、ゴルフキャディー…自分探しの苦悩と、アンジェ、マスカットとの共闘(原題:MUAY THAI, GOLF CADDYING, STRUGGLING, TO WORKING FOR ANGE AND MUSCAT)
ショーン・オントンは今、J1リーグの横浜F・マリノスにその名を連ねている。
かつてサイドバックとして Aリーグでもプレーした彼は、『KEEPUP』で筆を執るサシャ・ピサーニ記者に、コーチ業を始めるに至った経緯と自身の今後について語った。
プロアスリートの引退後の人生というものは、とかく困難を伴うものだ。
今までとは違った道を選び新しいことに挑戦するいい機会だと捉える選手もいれば、見通しが立たず苦しむ選手もいる。
今やショーン・オントンはオーストラリア人コーチの中でも新進気鋭の1人であり、海外でも一旗あげている。かつてAリーグでプレーしたサイドバックというだけでなく、J1リーグの横浜F・マリノスのコーチとしてもその名を知らしめているのだ。
しかしオントンのコーチ人生は決して順風満帆とは言えなかった。
時にはプロの格闘家になったり、またある時はゴルフのキャディーを務めたり、さまざまな自分探しを経ており、選手人生の後は苦難の連続だった。
そんな日々について、かつてアデレード・ユナイテッド、ニューカッスル・ジェッツでDFとしてもなおを馳せたオントンは、『KEEPUP』に次のように語った。
「選手の頃は、自分のやりたいことが明確だった。今の自分がいい選手なのか否かの二択だったからね。トンネルの中を進むみたいに他のことは目に入らなくて、自分がたどり着きたい境地へ向かう道筋がハッキリしていた。でも(選手人生を終えて)そんな日々が終わると、次何をするべきかわからなくて本当に苦しんだよ。」
「ただ、やってみたいことは明確にあった。だから空白を埋めるように手当たり次第色々やってみたんだ。自分の目的を探すために、自分探しの旅に出たんだ。長い旅だったから本当に色々やった。ルフもゴルフのキャディーもやったし、1年だけタイに行った時はムエタイのプロ選手になったりね。5試合くらいやったんじゃなかったかな。ずっと次何をするか模索し続けていた。」
「旅を終えてキャンベラに戻ってからは、親友のカズ(パタフタ)とサッカーアカデミーを立ち上げた*1。私たち2人はキャンベラ生まれでこの街に思い入れがあったし、いずれキャンベラに何かの形で恩返しができたら、と思ってたんだ。始まりはそんな感じだったけど、進めていく過程が本当に楽しかった。」
*1 アカデミーを共に立ち上げたKaz Patafta はAリーグのニューカッスルジェッツでオントンコーチと同僚だった元プロ選手。
オントンは2006年にオーストラリア国立スポーツ研究所を卒業し、ドイツのニュルンベルクのテストを受けたが、鼠蹊部の負傷のため早々に打ち切りとなってしまった。
その後1年間、スイスのシオンやスロベニアのNKマリボルなどのテストも受けた。だが怪我の再発が災いし、オーストラリアへの帰国を余儀なくされた。
かつてはU-20オーストラリア代表のキャプテンも務めるほどの実力者だったオントンだが、アデレードでもニューカッスルでも怪我が響いてしまい、最終的にはビクトリア州1部リーグのオークレイ・キャノンズでそのキャリアを終えることとなる。
プロ選手を終えた後の空白を埋めるために試行錯誤を繰り返すというのは、違和感を覚えるかもしれない。
結局オントンはサッカー選手を辞めて何か新しいことを始めようかともがいたが、サッカー以外の道を見つけることが出来なかった。
「人は皆それぞれ違う。プロスポーツの世界でも、周りより上手く選手後の人生を送っている人も多く見てきた。彼らはきっと選手を辞めた当時の私より賢く、先を見据えて物事を考えられるのだろう。だが、私はそんな計画性を持ち合わせていなかった。」
「周りの人は皆、次のこと、将来のことを考えるように言ってくる。学校ですらこんなことを言われる。『でもそれ、上手くいかなかったらどうするの?』と。けれど私は次のことは考えたくなかった。忠告されても言葉が耳からすり抜けて行ってしまったんだ。」
「私にとって選手後の人生は非常に難しいものだった。サッカーこそ私の全てだったからね。サッカーこそ唯一私がやりたかったことだったし、残念ながらそれ以外に大切に思えるものはなかった。だから選手引退後の日々は、私の人生の中でも最も苦しい時期だった。ただ幸運なことに周りの人には恵まれた。そういう人たちがいたおかげで、自分が大切にできるものが他にないか探すことができた。」
「言ってしまえば、手当たり次第チャレンジしてみる以外、私に選択肢はなかった。いつだって私は経験から学んできた。クレイジーな話かもしれないが、私はたぶん挑戦することに惹かれているのだろう。実際にやってみることで、有り難みがわかったり、多くの気付きを得られるんだ。」
ニューカッスルジェッツの現監督アーサー・パパスは、オントンがコーチ業へ進みキャリアを形成していく上で大きな役割を果たした。
パパスは2010-11の頃ヘッドコーチを務めており、オントンは彼とオークレイで共に働いていた。
のちにパパスはインドへ渡り、それを追うようにオントンもインドへ向かった。かくして2013年、デンポにて2人はまた同じチームで仕事をすることになった。
デンポの後のノースイースト・ユナイテッド、ケーララ・ブラスターズでも、オントンはアシスタントコーチを務めた。
オントンは次のように述懐する。
「試行錯誤を経てから、私はアーサー・パパスとサッカースクールで働いた。アーサーは私を救ってくれた恩人で、とても私に良くしてくれた。きっとアーサーは、何か私自身でさえ知り得なかったものを私の中に見出してくれたんだと思う。アーサーはまず、私にインドでサッカーを教える仕事をくれた。」
「インドではちょうどプロリーグがIリーグからISLへ移行する時だったから、私は初めてそこでプロサッカーがどんなものかを知った。アーサーも私も各地を転々とした。オランダ人監督のウルコ・シャトーリの元、ノースイースト・ユナイテッド、ケーララ・ブラスターズの2チームでアシスタントコーチを務めた。インドでは計3シーズン仕事したね。1年前のことにも思える。本当にいい経験だったよ。」
パパスがオントンをインドに招聘してから6年の月日が流れ、オントンは2019年リーグタイトルを獲得したF・マリノスに加わった。
以前上司だったパパスはマリノスのコーチングスタッフの1人として働いていたが、オントンをチームに招き入れたのは監督のアンジェ・ポステコグルーだった。
「2019年、彼ら(オーストラリア人コーチ陣)がタイトルをとったシーズン、私はアーサーに会うため日本に行ったんだ。その時マリノスでどんなことをしているか見て自己研鑽に繋げようとも思っていた。」
「アンジェは素晴らしい人だ。彼が私に日本で働くキッカケをくれたんだ。私を快く引き入れてくれて、包み隠さず教えてくれた。オフシーズンの間とはいえ、アンジェが横浜でしていることや彼と(かつてアシスタントを務めた)ピーター・クラモフスキーが作り上げたプログラムを見せてくれたのは驚きだったね。」
「マリノスで働くキッカケはこの時期だったけど、遡れば私は元々アンジェと知り合いだった。世代別代表で彼の指揮するチームでプレーしてたからね。選手としての私を助けてくれたアンジェが、コーチとしての私の道も切り拓いてくれたんだ。」
ポステコグルーは次世代のオーストラリア人コーチ達に多大な影響を与えている。
さながら「アンジェ大学」と言うべきか、ピーター・クラモフスキー(モンテディオ山形)、ケヴィン・マスカット(横浜F・マリノス)、ジョン・ハッチンソン(エルパソ・ロコモティブ)といった次の世代を担う指導者たちは、その薫陶を受けた「卒業生」である。
その以前からインドで監督としてプロチームを指揮した経験はあったものの、パパスもまたアンジェ大学を卒業した、ポステコグルー門下生の1人だ。
今やスコットランドの強豪セルティックを復権へ導いているアンジェ。そんな彼との仕事はどんなものか?
「信じられない経験だよ。選手として彼の元でプレーした時にすごく近い感覚だ。両親を除けば、アンジェは僕にやればできるんだってことを一番信じさせてくれる人だ。決して大都市とはいえないキャンベラから出てきた私のような身としては、大きな夢を思い描くことは難しい。今いる環境に満足して過ごす方がよっぽど気が楽だ。」
「アンジェとの仕事はもちろん大変だった。けれど彼は一緒に働く人が信じたくなるような能力を持っているんだよ。ハッチンソンもそうだ。彼もアンジェたった加入する前の一度だけ話し合っただけなのに、その意思に共感してアンジェの元で働いていた。周りからすごく信頼されているんだ。それぞれ自分のために頑張ろうと思うのは当然だけど、それと同じくらい私たちはアンジェのために頑張ろうとも思えた。」
「アンジェはときに私たちを追い詰めるし、不可能に思える難しいことも試してくる。けれど最後には、彼がなぜそんなことを我々に試してきたかがわかる。そして何よりアンジェが自分のことを気にかけてくれていたことに気付くんだ。私はアンジェの元で働く時間がすごく好きだったし、彼の一挙手一投足をずっと意識していた。もっとも、彼の仕事から何かを盗めたわけではないけれど。」
2021-22のはじめにポステコグルーがセルティックによってグラスゴーへ引き抜かれるまで、オントンは彼の下で働いた。
オントンにとっては自身の将来像を描く日々が始まったのだが、ポステコグルーとの日々は多くを与えてくれたという。
ポステコグルーから学んだことで一番大きかったものは?とオントンに聞くと、「多くのことを教わったからな。」と前置きをした上でこう答えた。
「信念だろうね。アンジェはこの点において素晴らしい能力があるんだ。やりたいことや目的、どうすればそこに辿り着けるかがハッキリわかっている。誰もが信念を持っていても薄れていくものだけど、彼はそれを保ち続けられるんだ。」
「アンジェは自分に対して正直な人だ。カメラの前や記者のいる場所では本音は言わないけれど、それは彼の人となりだから。ただ彼は自分の思いに対しては素直なんだ。だからアンジェは多くの人の心を掴む。たぶん初対面で話した時だったと思うけど、アンジェは私に『君は君らしくいるべきだ』と言ったんだ。『他のコーチのようになろうとか、誰かの代替になろうとしてはいけない。君の流儀でやれ。』とね。僕はまだコーチとして経験が浅いから、自分のやり方ってものをずっと考えて模索している。」
オントンは今なおポステコグルーと連絡を取り続けている。
「電話でもメールでも、アドバイスを求めればアンジェはいつも私の話に耳を傾けてくれる。共に仕事をしているわけではないけれど、彼なら私の悩みを解決してくれる。けれどアンジェはそもそも、私ならば自分で自分の進むべき道を見つけられるはずだと信じてくれているんじゃないかな。」
「選手の時も同じようなことがあった。スロベニアにいた時、私はヨーロッパでプレーすることを諦めてヤケになっていた。チームに加入しようとテストを受けても上手くいかないし、ビザの問題もあったから、ヨーロッパに留まる市民権を得るためにいっそ見合結婚でもしようかとすら思った時もあった。そんな時、私の両親がアンジェに連絡してくれたんだ。それを受けてアンジェは私に母国に戻るように勧めてくれたから、私は母国に戻ることにした。助けが欲しい時、アンジェは必ず私に寄り添ってくれて、アドバイスをくれるんだ。」
では、オントンはどのような将来像を描いているのか。
「いい質問だね。選手の時は、自分のしたいことは明確だった。けれどコーチとしては、監督になりたいという強い熱意だとか、この場所、このやり方でコーチを務めたいという格別な思いは特にない。」
「確かにわかっているのは、私はサッカーというゲームが好きで、いい環境に身を置きたいということ。そしてコーチ業、選手の指導が好きだということ。外されるまでは、この道を進んで、将来なりたい姿を見つけたいと思う。サッカーに長く従事しているから、5年、10年先のプランを描いたり、自分がどうなっているかを想像するのがいかに難しいかはわかっているつもりだ。だから私は今の仕事に集中している。日本はサッカーをするには素晴らしい国だから働いていて楽しいし、マリノスの一員として働くのが好きだ。周りには素晴らしいスタッフたちがいるし、アンジェの残した土台とレガシーがここにはあるからね。」
「今我々は、アンジェがいなくなった後のチームで戦っているが、これはこれで学びが多くて面白い。今思えばアンジェがいかに我々スタッフに楽をさせてくれていたか、たぶん私は当時理解し切れていなかったんだと思う。スタッフが自分の仕事に集中できるように、その他はアンジェが全部引き受けていたんだ。彼が去って、クラブには大きな穴が空いた感じがした。けれど我々は監督が移り変わる期間を乗り越えた。アンジェが去った今は新たなマリノスを築き上げている最中だ。」
オントンは今、F・マリノスでの仕事に集中している。
オントンとF・マリノスは、元オーストラリア代表選手のマスカットと共にポステコグルーが去った後の”ポスト・アンジェ時代”を歩むことになった。
昨シーズン途中に就任したマスカットは、F・マリノスを2位に導いている。
「私はケヴィン(・マスカット)からも学びを得たし、1年だけではあったが共に働いたジョン(・ハッチンソン)からも学びを得た。アンジェの後を継ぐというのは大変な仕事だ。そんな人いないと思うけど、後任としての仕事を過小評価することはできないよ。アンジェがこのクラブにしてきたことはそれだけ大きいからね。」
「ケヴィンはアンジェの作ったチームを引き継ぐだけでなく、自分の色も加えるという難しいタスクを任された。ケヴィンのここまでの働きは素晴らしいし、学べることは山のようにある。こうして彼の下で仕事するまでケヴィンと関わりはなかったから、お互いを知るいい機会だったね。ただ、シーズンの途中だったから、時間に余裕はなかったけれど。もちろんいくつか違いはあるけれど、大部分はアンジェとケヴィンは同じだと思う。だからアンジェの後をケヴィンが継いだことでクラブは安定した。」
2022シーズン開幕戦、F・マリノスはセレッソ大阪に最後の最後に追いつかれて2-2のドローに終わった。*2
*2 記事は2022年2/23時点のもの
マスカットのチームは昨年のリーグトップタイのゴール数を挙げた前田大然がセルティックに旅立ち、スター級のDFであるチアゴ・マルチンス(→ニューヨーク シティ)、ティーラトン・ブンマタン(→ブリーラム・ユナイテッド)を立て続けに失っている。
だがオントンとF・マリノスの野心に揺らぎはない。
「究極的な目標は、タイトルの奪還だ。チームの基盤になるような重要な選手たちは十分揃っているしね。」
「我々は多くの課題に取り組まなければならないし、現に今その最中だ。世界中どこでも起きていることとはいえ、コロナでプレシーズンの活動の中断を余儀なくされたのは痛かった。その影響こそ、今私たちが直面している直近の課題だ。」
「とはいえ序盤には体制は整うだろう。Jリーグ、ルヴァン、天皇杯、そしてACLと我々は4つのタイトルに挑戦するために追い込んでいく。多くの試合、多くのフットボールが待ち受けている。」
(記事翻訳ここまで)
最後に、この記事を翻訳・転載する旨許可してくださった、筆者のサシャ・ピサーニ氏(@Sachk0)に心より感謝申し上げます。
<この項・了>