目次
はじめにおことわり
この記事はあくまで読書感想文です。
骨太なトレーニング論とか、スポーツと人類学の関係性を論じた文書が読みたい方にとっては「コレジャナイ感」が出てくると思います。
ぜひ他をあたってください。。。
事の発端〜だいたい戦術的ピリ(略)ってなんなんだ〜
最近ナウなヤングが口にする「戦術的ピリオダイゼーション」がわからない。
いや、Footbolistaのインタビューで林舞輝さんがバカな私でもわかるくらい簡単に骨子を語ってくれてるんだが。。。
「まず、『サッカーはサッカーでしかうまくならない』というのが基本的な考えです。日本だとよくコーンを置いてその間をドリブルする練習がありますよね。戦術的ピリオダイゼーション理論に基づいて考えると、こういった練習は意味がないとされています。
(中略)だからこそ戦術的ピリオダイゼーションは、練習において常にボールを使ったりプレッシャーを与えたりといったことを非常に重要視しています。
(中略)
戦術的ピリオダイゼーションにおいて、重要視されるのは『ゲームモデル』(編注:ポルトガル語の「Modelo de Jogo」。JogoにはPlayとGameの2つの意味があるのでプレーモデルと訳されることが多いが、林氏は後者の方がニュアンス的に正しく理解しやすいと考えている)の概念です。これは文字通り『試合の模型』、もしくはもっと単純化すると『理想形』になるのですが、それに合わせて練習が組まれていきます。…
『林舞輝。新世代コーチが語る、「日本サッカーの日本語化」とは?』より抜粋
うん、これでわかった。なんとなく。なんとなく。
「プレッシャーがない、ボールを使わないトレーニングはしない」
「トレーニングはチームとしてやりたいサッカーの理想形(ゲームモデル)ありき」
というのがミソらしい。どうやら。
たしかに、日々のトレーニングを試合に近づけて、チームでやりたいことを実践していけば、自然と戦術は浸透しそう。めちゃくちゃ理に適ってるっぽいぞ。
ただ、これだけだとわからない事が多い。
具体的にメニューをどうアレンジすると「戦術的ピリオダイゼーション」っぽいのか、
週末試合があってトレーニングに割ける時間が少ない中で現場はどうしているのか、
一見すると理に適っているのになんで「正義」でも「トレーニング理論の絶対的正解」でもない(by林さんのブログ)のか、
ていうかそもそも「戦術的ピリオダイゼーション」って呼称長すぎないかetc…
理解が浅いので、こんな感じ。
一切上がらない理解度に反し、身の回りでの「戦術的ピリオダイゼーション」を知りたい需要は上がった。ツイッターで「#マリサポ戦術的ピリオダイゼーション研究部」なる部ができたくらいだ。マリノスのマジヤバみなチーム戦績を前に、「強い気持ち©︎川端暁彦氏」とか「球際」とかもさることながら「戦術理解度が不足」を上手くいかない原因として挙げる人が一定層いたため、需要が上がったのかもしれない。
自分の知りたいことを、身の回りの人も知りたがっている。なら調べて共有するかってことで行ってきた。天下の国立国会図書館へ。
そこで片っ端から「戦術的ピリオダイゼーション」と名の付く論文を探し出したところ、たどり着いたのが表題の相原氏著の論文だった。
この論文は、「サッカー専門家」向けの雑誌ではなく「スポーツ人類学」分野の人向けの雑誌に寄稿されたもの。なので、サッカーをあまり知らない他のスポーツ関係者もこの論文を読み得る。ということは、「戦術的ピリオダイゼーション」とは何かがサッカー専門家以外でも理解できるよう説明してくれる記述があるに違いない!(だったら一介の妄想系サポの私でもわかるだろうと期待して)早速読んでみた。以下はその感想文。
だから戦術的ピリオダイゼーションって何なんだってばよ
この論文がどんなものかというと、
- サッカーにおける「疲労」はどんなものなのか、戦術的ピリオダイゼーションや他の学問の考え方をもって再解釈する
→人類学者ヴィヴェイロス・デ・カストロの「翻訳」 - 戦術的ピリオダイゼーションの考え方を用いているチーム(ポルトガルのチームで、文中では”F”と伏せ字になっていた)のトレーニングを例に出して、再解釈した結果どういう恩恵が得られるかを述べている
といったところか。(序論とか抜粋できたらよかったんだけどコピーし忘れた)
疲労の再解釈に焦点を当てた文なので、結論から言うと、表題の相原氏論文だけでは「戦術的ピリオダイゼーション(以下、論文内の略称であるPTと呼ぶ)」の全ては理解できなかった。
まあ、そりゃそうだ、と。
もっというと先述の林さんでも、PTについてまとめるのは難しいらしく、ブログにこんなことが書いてあったくらいだし。
そもそもブログ一本でまとめられるようなものならイギリスの大学で3年間もみっちり刷り込まれる必要も、ポルト大学に来る必要も、ビトール・フラデ教授に個人的にアポを取って何度も話し合ったり質問しまくったりする必要もないわけです笑。
けれど、確実にPTへの理解は深まった。というのも、最初に期待した通り、サッカー専門家以外にもわかるよう手取り足取りPTの概論を読み手に伝えてくれたためだ。
まず、PTの概念の中でサッカーのプレーは、「身体的なもの 」、「心理的なもの」、「技術的なもの」の様相を持ち、「これら3つの様相を全て包含したときの様相」を「戦術的」と呼ぶそうな。だいたいこんな感じか。
今まで「戦術的」という単語を見ると、「監督が『ああせいこうせい』と指示した結果うまくいっている様」とかを連想しがちだったけど、PT(もっと言うとヨーロッパのサッカー界隈)では個人のプレーに心技体が整っている様を「戦術的」と考えるわけですね。
サッカーファンが「効いてる」と言うプレーなんかは、「戦術的」なプレーなのかな、と。
関係ないけど、「個人戦術」って単語が最近よく使われて、「チーム戦術」と分ける風潮にあるのはこのためなのかな、とも思ったりしちゃったりたり。アリー・サリー・ムンタリ。

さて、プレーが「戦術的」、心技体合わさった複雑なものだとするなら、選手がプレーする環境もまた複雑、というのがPTの考え方。
選手のプレー環境は「選手たちの様々なプレー」や、「観客」、「天候」、「ピッチ状況」などなどの要因が「分割不可」なほどに絡み合い、しかも「絶え間なく状況が変化」してプレーに作用する。そのためプレーする環境のことを「複雑なシステム」とPTでは捉えている。
試合の中のプレーも複雑、プレーする選手を取り巻く環境もまた複雑。そんな複雑怪奇なサッカーの試合を考えたら、トレーニングも複雑じゃないといけない。(文中に曰く「トレーニングは試合に似ていなければいけない」)。
なので、PT、戦術的ピリオダイゼーションの「戦術的」は、「プレーや環境の複雑さ」を表しているのではないかと。
戦術的ピリオダイゼーションと「疲労」
とはいえ、選手は機械ではなく人なので、トレーニングや試合をすれば「疲労」を溜める。
PTにおいて「疲労」は、そのまま体の疲れを指す「身体的疲労」と、頭の使いすぎやメンタルの揺れによる疲れ「情動的疲労」の2種類があるとされているらしい。
現に、論文内に出てくるチーム”F”のU-13、U-17チームのコーチで、PTの生みの親であるヴィトール・フラーデポルト大学教授の教え子というセルジオ・フェレイラ氏は、「選手は肉体だけでなく、頭も同様に疲労する。後者も考慮すべきだ。」という。
他方セルジオ・フェレイラ氏は、「選手が試合において最もフレッシュな状態(mais fresco)でプレーできるようにしなければならない」とも語っている。
つまり、試合前には頭も体も疲れていないようにしておくべきだ、と。
なので、コーチたちは選手の「疲労」をコントロールすべく、トレーニングの複雑性、「戦術的強度」を調整する。「戦術的強度」を上げれば「疲労」は溜まり、下げれば「戦術的強度」はあまり溜まらない、という風に。
論文中で相原氏は「戦術的強度」を左右する要素として、以下を挙げていた。
- 運動量(多い:強度高、少ない:強度低)
- プレーに関与する人数(多い:強度高、少ない:強度低)
- プレー空間の1人あたりの広さ(広い:強度低、狭い:強度高)
- プレー時間の長さ(多い:強度高、少ない:強度低)
1は「身体的疲労」に直結するが、2以降は「情動的疲労」頭や心の疲れにもつながる。
プレスをかけに来る人が多かったり(2.)、スペースが狭くなったり(3.)、長い時間プレーする(4.)とプレー選択は難しくなり、頭は疲れ、プレッシャーを感じて心も疲弊する。
そして、この「戦術的強度」を加味してメニューを設計している例として文中で紹介されているのが、チーム”F”のU-17、セルジオ㌠のトレーニングメニューだった。
戦術的ピリオダイゼーションを取り入れたチームの1週間のトレーニングメニュー
「セルジオ㌠はどんな多種多様なトレーニングをするのだろう…」と思って読み進めてみると、ところがどっこい、トレーニングとして行うことは以下の5つだけ。
- ロンド(輪オニ、鳥かご)
- ポゼッション練習(詳細後述)
- シュミレーションゲーム(詳細後述)
- 試合
- セットプレー練習
2のポゼッション練習は、ロンドにフリーマンがついたような感じ。
続いて3のシチュエーションゲームはこんな感じ。
この5つを日によって組み換えることで、以下のような1週間のプランが出来上がる。
このように、PTを取り入れているからといって、特別複雑なメニューをしているわけではないみたいだ。しかしそれぞれの日のトレーニングは、「人数」「1人あたりのプレー空間の広さ」「時間の長さ」を変えており、「複雑性」とそれによる「疲労」を調整している。この「複雑性」の調整こそ、PTの要素だという。
例えば、火曜日は試合の2日後。「選手たちが試合の疲労から次の試合を行うのに十分に回復するには、途中の練習日で角な戦術的強度を課さない限り、あいだに3日かかる。[Oliveira B. et al. 2006 : 112]」とのことなので「疲労」は溜まっている。とはいえ次の試合の準備を始めるためにも「戦術的強度を下げすぎてはいけない」日なので、試合も行う。
だが、ポゼッション練習やシチュエーションゲームでのフリーマン(攻守の切り替えはないので比較的休める役割)を増やしたり、また格下との試合で攻めまくる展開だったため疲弊したFWたちは数的有利なチームに入れてプレーする範囲を制限したり…と工夫している。
反対に木曜日は、前回の試合からも次の試合からも遠い日であるため、「戦術的強度」の高いメニューにしている。ロンドやポゼッション練習のコートサイズを広げて肉体的疲労を増やしたり、シチュエーションゲームの人数を増やしたり、さらには試合は年上の相手と行ったり、ゴリゴリのメニューとなっている。
最後に金曜日は、セルジオさんの言葉のように「選手が試合において最もフレッシュな状態(mais fresco)でプレーできるようにしなければならない」ので、「戦術的強度」は低め。「疲労」を溜めないよう設計されている。コートサイズやトレーニングの人数を調整して「戦術的強度」を下げつつ、セットプレーの確認など試合前に確認しておきたいことは欠かさず行う。
また、先述したように、PTはゲームモデルありきである。
ポゼッション練習やシチュエーションゲームでも、「ボールを保持して縦に速く攻める」というチームのゲームモデルをもとにして行われていたようだ。例えば後者では、フリーマンをサイドのライン際に立たせる。これはサイドでの三角形から相手守備ブロックを崩すプレーの意識を養うためだという。論文の性格上、「疲労」の話に重きが置かれていたからこの例くらいしかわからなかったけれど、セルジオさんはこうしたゲームモデルを選手に根付かせる工夫をトレーニングの至る所に差し込んでいるのではないだろうか。。。
ということで、冒頭の林さんが教えてくれた骨子に加えて、PTについてわかったのは以下。
- 何か固有のトレーニングメニューを指しているわけじゃない
- 突拍子のないメニューではなくむしろいくつかのトレーニングの組み合わせ
- トレーニングメニューを組む上での考え方と捉える方が良さそう
- 戦術的と名が付いているからチームの戦術をゴリゴリ教え込むわけではない
- 試合が最も「戦術的強度」が高く「疲労」の溜まるものと捉える
- そこから「戦術的強度」を調整して「疲労」を調整する
- 「戦術的強度」を調整する手段は「運動量」「人数」「1人あたりスペース」「時間」
うん、前よりちょっとだけわかった。氷山の一角が見えたくらいだと思うけど。
サッカーの言葉を他の観点から見つめ直す
論文ではPTとチーム”F”からさらに深掘りする。
「疲労」と一言にいっても「身体的疲労」と「心情的疲労」があるというのはPTの考え方だが、オランダの哲学者スピノザの「心身並行論」(相原氏曰く、精神の能力が低下するとき、それと並行して身体の能力も低下するというものらしい)を出して、心身の疲労に相関関係がある、という論を展開していく。
このように、サッカーの現場で用いられている言葉を、哲学など他学問の視点から見つめ直すことで、現場のあり方(トレーニングのやり方など)を変容・改善できるというのが相原氏の主張だ。
たしかに、哲学などの学問から遠のいた一介のサラリーマンでも、生活の中でサッカーに通じる気づきを得られる時がある。例えばプロジェクトマネジメントの本を読んだ時は、「チームとしてまとまるためにも、まずはチームの理念を明確に打ち出しましょう」みたいなことが書いてあり、「これってゲームモデルの重要性を語っているのでは?」とか思ったり。
この前に読んだ「サッカーマティクス」という本では、サッカー好きの数学者が、魚の群れとサッカーでのポジショニングの親和性について語っていたり。
私のような一介のサラリーマンの気付きなんてものは、ほとんど無意味かもしれない。だが、言い方を変えれば、私のような一介のサラリーマン「でも」、サッカーの外から何かを気付いたりできるということだ。
サッカーに関わる色んな人が別のフィールドの話を考えたり、または別のバックグラウンドの人がサッカーに関わってみたりして、「異業種交流」のようなものが活性化できたら、案外それが「日本らしいサッカー」の糸口になったりするんじゃないかな…とか思ったり思わなかったり。アリー・サリー(以下略)
あらやだ、マリノスブログなのに「日本らしいサッカー」まで話を大きくしてしまった。
PTと「疲労」の話に戻ろう。
頭が疲れる「アタッキング・フットボール」
マリノスに視点を移すと、今のサッカーはとても「情動的強度」の高いサッカーだろう。
チームとして走行距離が長いため、「肉体的疲労」もあるだろうが、今のマジ卍でマジヤバみ(精一杯の若者アピール2回目)なチーム状況は、PT的な「情動的疲労」の方が大きく関わっているのではないかと思う。
我々マリノスのサッカーは、「ハイライン」「攻めまくる」「失点しまくる」「飯倉またサイドで給水してんな」というようなイメージばかりが先行して、「頭を使う」という点はあまり語られない。
視野を確保できないパスの受け方が出来なければコースを見つけられず思った方向へパスが出せない、相手を騙す体の向きでの出し方が出来なければパスは通らない、そしてポジショニングに気を配らなければプレスはハマらないわパスの距離も遠のくわ…ざっと思いつくだけでも頭の使い所に満ちている。「アタッキング・フットボール」は頭が疲れるサッカーなのだ。
では、そのサッカーをやるために「戦術的強度」をコントロールするようなトレーニングを継続的に出来ているのかなどは、普段練習を見ていない私には正直わからない。
だが、この前見学に行った時に限って言えば、PTの考えが組み込まれた練習のように思えた。
全体練習の序盤のメニューこそランニングやステップなど、ボールを使わない上にプレッシャーもない、「戦術的強度」は低いどころか、ほぼ無かった。
しかしそこから先はテンポの速いロンド、ダミー人形やフリーマンを交えたチーム”F”のポゼッション練習に近いメニュー、実戦形式の11対11など、終始ボールとプレッシャーに満ちていて、パスを繋いで縦に速く攻める我々のゲームモデルに根ざしたメニューだったように思う。
残留争いにがっつり巻き込まれているし、ゲームの内容もなかなか良化しないため、サポとしては、つらみ深すぎてマジ卍(精一杯の若者アピール3回目)かもしれない。
だが、方向性はそこまで間違っていないと思うし、ゲームモデルまで否定する必要はないのではないか。
やや楽観的過ぎるかもしれないが、個人的にはこの方針を信じて、良い意味でマジ卍な結果を得られるよう応援していこうと思う。あ、でもゲームモデルとプレー原則が遵守できない理由は明らかにして可及的速やかに対応して欲しいですあと特に練習の内容や意図を伝えられない番記s(手記はここで途切れている)
では今回はこれにて。残留するぞァ!