【記事和訳】ミロシュが語る戦争体験とオーストラリア移住の話

PV2_DEGENEK_1280x560

我らがミロシュ・デゲネクが自身の戦争体験と移住後のオーストラリアでの暮らしについて語った記事(エッセイ?)が、オーストラリアのメディアPlayers Voiceに掲載されていました。

マリサポの皆さんの多くがご存知の通り、(そして本文中でもミロシュ自身が触れている通り)ミロシュが生まれたのはオーストラリアではなくクロアチアで、彼とその家族はユーゴスラビア紛争から逃れるためにオーストラリアに移住しています。

幼少期に体験した戦争の悲惨さが生々しい言葉で語られている一方、その後移住したオーストラリアでミロシュ自身とその家族がどれほど助けられ、その恩返しの場となるワールドカップにどれほど燃えているかも述べられています。

以下はその記事の和訳です。やや意訳気味になってしまってますがご容赦くださいm(_ _)m

 


サイレン、そして防空壕へ(THE SIREN, THEN THE BOMB SHELTER)

僕がオーストラリアを愛するようになった理由は、ほかの大多数の人と違う。

僕はオーストラリアで生まれたわけじゃない。来た当初は英語も話せなかった。正直、初めてこの国を見た時は「ここは慣れない土地だ」とも思ってたくらいだ。

でも、この国の存在が僕にとってどれほど大きいかは、言葉で表しきれない。(あと数段落で、どうにか伝えられるよう頑張るけどね!)

世界中のどこにいようと、オーストラリアは僕の心の拠り所であり続ける。これは僕だけじゃなく、僕の両親であるドゥシャン、ナーダ、そして僕の兄弟であるジョルジェも同意見だと思う。

オーストラリアは僕たち家族を受け入れてくれて、戦争による絶望から立ち上がる希望をくれた。おかげで僕たちは一生懸命に働いて家を建てて新たな生活を営むことができた。オーストラリアでの新たな生活は、僕に「夢を持つことには価値がある」と教えてくれたんだ。

 

戦争なんて大嫌いだ(I HATE WAR)

僕は1994年、独立戦争の只中にあったクロアチアで生まれた。

僕が生まれた時期は、僕たち家族にとって厳しい時期だった。

僕が生後18カ月の頃、家族はそれまで住んでいたクニンという街を離れなければならなかった。

僕は両親と共に9日間トラクターに乗って、逃げるようにセルビアへ向かうことを余儀なくされた。道中はミルクとパンしか口に出来なかった。

僕らは全て置き去りのままに街を出た。家も、土地も、親戚も、友達も。それは僕たち家族にとって困難なことだった。

あの頃のことについて、僕は多くを語らないし、父さんもそうだ。父さんにとっては、とても悲しい時期だったからね。あれから24年経った今でも、父さんはクロアチアに戻った事はない。

僕らはベオグラードから南に70キロ離れたアランジェロヴァツという街で再び生活を送り始めた。

アランジェロヴァツは平和で美しい街で、近くにはBukulja 、 Venčac (注:カタカナ化できず・・・なんて読むんだこの山) という山々があった。街の風景はとても良かったが、その後何が起こったかは皆が知っている通りだ。

1999年、NATOは当時のユーゴスラヴィアを爆撃した。なぜかは僕にはわからないし、今後も理解出来ないだろう。

当時僕は6歳だった。

僕は裏庭だったか空き地だったかで友達と遊んでいた。

その時、攻撃を受けたことを知らせるサイレンが聞こえた。

僕は、セルビア式の古い建物の下に作られた地下壕に行かなければならなかった。

時に僕たちは48時間もその地下壕で身を隠していた。地下壕に自然光はない。僕たちは犬のように缶詰の食べ物を食べて生き延びた。けど、何よりきつかったのは、状況が不安定だったということだ。

どうにかして寝ようとしても、次の朝生きて起きられるかどうかもわからない。両親と生きて再開出来るかもわからない。爆撃で地面が揺れ、爆撃音が聞こえる。地下壕は外に比べれば安全だろう、もっとも、上の建物が崩れなければ、だけど。

こんなクソみたいな話はしたくないんだが、事実僕は死体や地面に落ちてくる爆弾を目の当たりにしたし、爆撃がもたらす影響も経験してしまった。

世界中のどんな子どもたちにとっても、こんな環境のもと生き抜くなんてあっちゃいけないんだけど、戦争や爆撃は未だに世界中の至る所で起こっている。

僕は戦争が大嫌いだ。ひどい経験だったし、僕は公の場で自身の戦争体験を話すことはこれまで一度もなかった。

たくさんの子どもや罪のない人々が、必要もなしに死んでいった。何故彼らが死ななければいけなかったかなんてわからない。僕は政治家じゃないから。

わかってることは、僕は戦争にまつわる全てが大嫌いだってことだ。

だれかが戦争について話す時、僕はいつも黙っている。

僕は戦争がどんなものかを知っている。僕は生き延びたけれど、当時の記憶も残ったままだ。

 

 

新たな生活(A NEW LIFE)

父さんは800メートル走のランナーだった。旧ユーゴスラビアでは国内屈指の選手だったらしい。僕はまだ幼かったので父さんが走るところは見ていないのだけれど、周りの人が言うにはとても速かったそうだ。

かつて父さんと走った人たちの中に、赤十字で働いていた人がいた。

その人は父さんに国連だか赤十字だか(どっちかはよく覚えてないけど)のプログラムを教えてくれた。そのプログラムは戦争から逃れオーストラリアに移住できるというもので、初期費用がかからない代わりに、ある程度収入が得られるようになったら移住のコストを団体に払い戻す、というものだった。

暮らしていたセルビアに留まる理由は無かった。父さんも母さんも稼ぎは少なかった。苦しい生活の中、サッカーをしている時だけ、僕は街で起こる出来事から開放されて、幸せな気持ちになれた。

食べ物を確保するのもやっとだった。僕たち家族は何も持っていなかったんだ。

両親は僕とジョルジェにシドニーについて話してくれたけど、記憶にない。僕とジョルジェはどこかに引っ越すんだってことは知ってたけど、そこがどんな場所で、そこにいつまで暮らすかは知らなかった。

ジョルジェと僕は興奮していたし、セルビアからオーストラリアへのフライトも長く感じなかったと思う。子どもだった僕たち兄弟にとって、飛行機に乗るのはさながら大冒険みたいなものだったからね。

シドニーに着くまで、僕たち兄弟は自分たちがオーストラリアという新しい国にいるということをわかっていなかった。

 

シドニーの南のはずれの中でもさらにはずれ、キャンプジーという街で僕たち家族は生活を始めた。移住してすぐに僕は衝撃を受けた。アランジェロヴァツは何世紀も昔からある古くて小さな街だったけど、今僕たちがいる場所は巨大で真新しい建物や高層ビルに囲まれていた。そしていたるところに人がいた!

全てが新鮮で今までいた場所と違っていた。僕たちには顔見知りもいなかっまし、言葉も話せなかった。完全に今までと違う世界だった。

移住して最初の一年は困難を極めた。けれど、セルビア人・クロアチア人のコミュニティの中で新たな人と出会い、友達になったおかげで、少し楽にはなった。さらに僕が学校に通い始め、両親が仕事を見つけたことで、また楽になった。こうして僕たちの暮らしは思い描いていたようなものになりはじめた。

僕はといえば、オーストラリアに恋するようになった大きな出来事が2つあった。

1つは僕たちがオーストラリアで初めての家をリバプールに買ったときだ。家を買うだなんて僕らは想像すらしてなかった。オーストラリアという国は、僕たち家族に一生懸命働く機会をくれた。その機会のおかげでお金を稼ぐことができ、ついには家を買えるようになったんだ。

その家はすごく、すごく古い家だったけど、大きな裏庭があった。この裏庭が僕にとっては最高だった。裏庭は毎朝6時に起きて学校前にトレーニングする僕の練習場になった。また練習に使わないときは、僕と兄弟と友達で3対3や4対4のミニゲームをするための広場にもなった。裏庭で集まってプレーする僕らは、ちょっとしたサッカーチームみたいだった。

もう1つは、15歳以下のオーストラリア代表のキャプテンを務めた時だ。

そのゲームは決して大一番ではなく、キャンベラのオーストラリア国立スポーツ研究所で行われた日本との親善試合だった。でも、僕にとってはとても意味のあるゲームだった。僕の家族は試合を見に来てくれて、父さんは泣いていた。1つの夢が叶った瞬間だったからね。

オーストラリアで生まれ育った少年たちで構成されたチームだった。彼らは僕よりもオーストラリアという国をよく知っていた。でも、コーチは僕にこの国のリーダーとしてプレーする機会をくれた。何もない状態で世界の反対側にからオーストラリアにやってきて10年にも満たない僕に、だ。

それは素晴らしい体験だった。あの時の思い出は僕の心にいつまでも残り続けるだろう。

 

常に感謝を(FOREVER GRATEFUL)

僕は、オーストラリアという国が僕と家族にしてくれたことを絶対に忘れはしないだろう。

僕の心の中にはクロアチアとセルビアへの思いもある。そう、なぜなら僕たち家族は皆そこで生まれ、幼少期を過ごしたから。そしてそこで僕は人生で最も困難な時期を過ごしたから。

でもオーストラリアは、僕たちが何も持っていない頃に受け入れてくれて、僕らがもう一度人生をやり直すためのチャンスをくれた。

今、僕は日本のクラブ、横浜F・マリノスを拠点に活動している。でも、オーストラリアに帰国する時に感じることは、いつだって同じだ。オーストラリアにいると自分は必要とされているんだ、歓迎されているんだと思える。人々は笑顔だし、夢を持っていることをバカにされたりはせず、むしろ自分の夢を追うように背中を押してもらえる。僕が生まれ育ったクロアチアと比べると、オーストラリアはとても歴史の浅い国だけれど、どんどん進歩している。

両親とジョルジェは3年前にセルビアに戻った。僕は海外でプレーする夢を叶えて5、6年単身ドイツでプレーしていた。両親とジョルジェはヨーロッパに戻って僕のそばで暮らそうとしたんだろう。そのおかげで家族は僕のもと多く訪れられるようになったし、僕の生活は楽になった。

でも状況が変わって、家族はオーストラリアに戻りたがっている。彼らはオーストラリアこそ世界で一番の国だって思ってるから。

父さんとジョルディはシドニーまで飛行機で来て、ホンジュラスとのワールドカップ大陸間プレーオフを観に来てくれた。僕たち家族にとってとても感動的な瞬間だった。僕はワールドカップ行きの切符を勝ち取り、僕たち家族にあらゆるものをもたらしてくれたオーストラリアに初めて恩返しできたんだ。

母さんは来れなかったみたいで寂しかったけど、父さんと兄弟と、この誇らしい瞬間を共有できたことはすばらしかった。その時撮った何枚もの写真は、僕はずっと大切にするつもりだ。

その時父さんは言った。「これからも今まで通り、自分のやるべきことに集中して、努力し続けるんだ。」と。

父さんの言う通りだ。どんなにこれが旅路の終わりのように感じられても、実際はまだ始まったばかりなんだからね。

 

ワールドカップという夢(WORLD CUP DREAM)

僕には手離したくないものが4つある。家族、サッカー、神への信仰、そして母国だ。

この4つへの思いを一度に表せる方法こそ、ワールドカップでオーストラリア代表として出場することだと思う。正直、僕の人生で最高の瞬間になるだろうね。

家族はロシア行きの計画を立てている。彼らが笑みをたたえながらスタンドで飛び跳ねる姿が目に浮かぶよ。

こんな喜びを感じられるのも、オーストラリアにいたからこそだ。

幼い頃には、週末ピッチの上で過ごす90分を考えることだけが唯一の幸せ、なんて時もあった。この変わりようはドラマのように聞こえるかもしれないが、まぎれもない事実だ。

ここオーストラリアでは、僕はサッカーに没頭できる。夢を叶えるため努力することができた。

僕だけでなく僕の家族にまで優しくしてくれたオーストラリアという国に恩返しする、そのために思いつく最良の方法は、ワールドカップでサッカールーズのために僕の魂を捧げることだ。それ以上のことは思いつかない。

ワールドカップでオーストラリアに貢献することは僕だけじゃなく、家族皆の夢だからね。


 

先月のリーグ第15節ホームでの長崎戦、マリノスサポーターはミロシュに向けて、「君の夢は俺らの夢でもある。ミロシュ、幸運を!」という旨の横断幕を出しました。

50_95.jpg

自身と家族を救ってくれた国へ恩返しを、という彼の夢を、我々マリサポも応援していきたいですね。最後まで読んでいただき、誠にありがとうございました!

コメントを残す